田副暢宣の事務所のスタッフが、京都のクラブ、ライブハウス、レゲエ、ヒップホップなどの関連ニュースをまとめました。

テクノパーティー DJ介し一体感

スペース・ソニック・パーティー

(1997年1月14日、朝日新聞)

ダンス音楽
ターンテーブル

1996年暮れの日曜日、約2,500人の若者が奈良県の生駒山上遊園地に集まった。お目当ては野外劇場で開かれた「スペース・ソニック・パーティー」。正午から午後8時まで、「テクノ」と呼ばれるダンス音楽が、舞台上でターンテーブルを操るDJの手で流され続けた。

電子音の短いフレーズの反復
コンピューターとシンセサイザー

コンピューターとシンセサイザーでつくられた電子音の短いフレーズの反復。人工的な音楽とは対照的に、聴衆の反応は自然だ。ふらふらになるまで踊り続ける人の隣に、おしゃべりを楽しむ女性グループや、昼寝をする人。ロックコンサートのように会場がひとつになる感じはない。大阪市から来た短大生(19)は「みんなテクノが好きで来てるんだから、これはこれで一体感があるの」と話した

クラブ「ラブ・トライブ」
ミキサー、レコード

テクノ人気は数年前から、都会の「クラブ」で高まった。ブームは最先端の流行や音楽を追う人たちの閉鎖的空間だったクラブの間口を広げ、主役のDJは若者のあこがれになった。 京都市中京区のクラブ「ラブ・トライブ」は、ハウスやヒップホップなどのクラブ音楽が日替わりで流れる。1996年12月18日はテクノの日。ヨシキ(22)、ケイタ(21)、タロウ(23)のDJ3人が交代で朝までプレーした。 3人はクラブに通ったり働いたりするうちに、DJをやり始めた。ターンテーブル2台とミキサー、レコードさえあれば一人でできるから、バンドのように仲間を探す必要もない。

自主レーベル
極東のターンテーブル魔術師

100枚近いレコードを持ち歩く。取り出しやすいように仕分けし、客の反応を見ながら瞬時に選ぶ。「ロックのように聞かせるのではなく、聞いてくれる人が主役。でも、それがいい。センスがあれば、言葉なしでコミュニケーションできる」 生駒山には、3人を含め、関西で活動するDJ10数人が集まった。最後に登場した田中フミヤ(24)は、ヨーロッパのクラブ音楽誌の世界のDJ人気投票で、6位に選ばれたこともある第1人者。「極東のターンテーブル魔術師」とも呼ばれる。

京都府出身

京都府出身。大阪・アメリカ村の古着店で働きながら、1990年ごろからDJを始める。当時、テクノは新しすぎて「保守的な関西で、周りの音楽状況とうまく付き合っていけなかった」という。既存の音源に飽き足らなくなって、自主レーベル「とれまレコード」もつくった。「僕はお客さんに合わせない。クラブDJは、型にはまったディスコDJとは違う。みんな新しい音楽を求めて来るんだから」とこだわる。

「ミニマル」というスタイル
テクノは、そこでの共通言語で、DJは通訳

田中のテクノは、同じビートを続けながら、グルーヴ(うねり)をつくっていく「ミニマル」というスタイルだ。「日本人はすぐひとつの方向に向きたがるが、人によって楽しみ方が違うのがテクノの魅力。多くの人がパソコンを持つ個人主義の時代にも合っている」と分析する。

パーティー

DJが盛り上げるテクノイベントは「パーティー」と呼ばれる。「クラブ」という社交場で、若者が適度な距離を保って楽しむ空間。テクノは、そこでの共通言語で、DJは通訳なのかもしれない。

魅力の音楽「レゲエ」に伊藤忠など大手が参入

ジャマイカへ、旅客も急増

(1995年9月2日、読売新聞)

伊藤忠商事などがレゲエ専門の企画会社設立

ジャマイカ発祥で独特のリズム感が魅力の音楽「レゲエ」がここ数年、国内で急速に浸透している。伊藤忠商事などがレゲエ専門の企画会社を設立するなど、1995年に入って、音楽会社以外での大手参入の動きも目立ち始めた。

ザ・メイタルズ「ドゥ・ザ・レゲエ」

「夏の季節物」という一時の代名詞も姿を消し、ポピュラー音楽として定着したばかりか、ナイトスポットを巻き込み、若者を中心に激しい盛り上がりぶりだ。「レゲエマーケット」は今、国内有数の注目株となりつつある。 レゲエの誕生は1970年代と意外に歴史は浅い。米国のR&Bが海を渡り、二拍子の「スカ」に転じたのが源流。テンポをゆるやかにしたザ・メイタルズの楽曲「ドゥ・ザ・レゲエ」が出発点とされる。

レゲエの巨人、ボブ・マーリー
レゲエ・ジャパンスプラッシュ

当時のジャマイカは政治的な混乱期。メッセージ色の濃い歌詞で大衆に支持されるが、レゲエの巨人、ボブ・マーリー(1981年没)の登場で世界的な知名度を獲得した。1995年現在ではスタイルも多様化、ロマンチックな「ラバーズ・ロック」が主流となっている。 日本で初めてレゲエを本格的なビジネスに結び付けたのは、1984年設立の音楽企画会社、タキオン(本社・東京都渋谷区)。畑中稔社長は「音楽業界に新たに参入するにはすき間市場しかなかった。もちろん、レゲエの潜在的な成長力は信じていたが」と振り返る。

畑中稔社長

企画業務の柱は夏の野外イベント「レゲエ・ジャパンスプラッシュ」。11回目の1997年は全国12か所で計12万人を動員。当初は3,000人に満たなかったが、1991年の46,000人を境に1992年の80,000人、1993年の90,000人と急激に伸びた。

日本からジャマイカへの旅行客も大幅に増加

この動員数の推移は国内でのレゲエの浸透度のバロメーター。「同時期に米国で発生した、ラップなどのヒップホップ・ムーブメントに融合する格好で日本に波及した」と畑中社長は分析する。 レゲエの国内版CD(コンパクトディスク)新譜数も同様。1989年の17枚に対し、1994年は約400枚がリリースされた。日本からジャマイカへの旅行客も大幅に増加。ジャマイカ政府観光局によると、1988年に1,800人だったのが1991年には10,000人を突破、1993年は約18,000人を記録した。

タキオン・インターナショナル
レゲエ専門のレーベル「MANJARO」

こうした急成長ぶりを背景に、伊藤忠商事は1995年6月、タキオン、ソニー・ミュージックエンタテインメントなどと共同でタキオン・インターナショナル(本社・東京都、資本金2億円)を設立した。 伊藤忠はこれまで、通信衛星事業などインフラ面で投資を展開。伊藤忠から出向した有田正臣専務は「レゲエは大きなマーケットに育ちつつある。音楽ビジネスへの参入は初めてだが、今後重要になるソフト面への進出の足掛かりにしたい」と意気込む。 1995年11月にはレゲエ専門のレコードレーベル「MANJARO」を立ち上げるほか、将来的には通信衛星を使ったレゲエ・チャンネルの開設などアジア各国への展開を目指す。初年度10億円、1997年度で40億円の売上高を見込んでいる。

オリエント・コーポレーション
レゲエ愛好者向けのクレジットカードの発行

また、オリエント・コーポレーションは1995年3月から、レゲエ愛好者向けのクレジットカードの発行を始めた。レゲエ情報紙が毎月送られるほか、提携先のタキオンが企画するコンサートチケットの優先予約ができる。初年度は10,000人、3年間で50,000人の会員獲得を見込む。 全国で現在、レゲエ関連の店舗はクラブやバーなどのナイトスポットで約200店、レコード・CDの専門店は約400店という。若者を中心に一般層まで、レゲエマーケットは確実にすそ野を広げている。

なにわの週末、ラテンのリズム

出稼ぎ南米日系人がクラブ借り切り

(1998年4月16日、毎日新聞)

大阪のライブハウスなどを借り切り
ダンスパーティー

週末の夜、大阪のライブハウスなどを借り切ったダンスパーティーが、南米から来た日系人の間で流行している。額の汗をカクテル光線が照らし出し、若者たちのステップが地響きのように場内にこだまする。踊る若者のほとんどは日系2世、3世のブラジル人、ペルー人。リズムに乗った日系人コミュニティーは、3K職場で働く若者たちのつかの間の“オアシス”だ。

天保山マーケットプレースのライブハウス
ベイサイド・ジェニー

1998年3月のある土曜日の深夜。大阪市港区、天保山マーケットプレースのライブハウス「ベイサイド・ジェニー」に若い男女が集まってきた。日本人と似た顔つきだが、言葉はポルトガル語。彫りが深い欧米系の顔も見える。ほとんどはブラジル人。抱き合うカップルの姿もあり、異国に迷い込んだような錯覚に陥る。 午前0時過ぎにはフロアが満杯になり、一晩で約700人が集まった。車部品や食品の工場で働く労働者、Jリーグ・セレッソ大阪の通訳、飲食店従業員……。北陸、広島、岐阜、愛知などからもやって来る。

1988年~98年の音楽シーン
佐藤アンデルソン

この夜のテーマは「1988年~98年の音楽シーン」。日系ブラジル人が日本を目指し始めてから約10年間にヒットしたブラジルや欧米の曲を流す趣向だ。午前3時、抽選会が始まり、ミッシェルという女性にステレオが当たった。サンバ風の音楽に変わり、会場の熱気は最高潮に達した。 企画しているのは日系2世のブラジル人、佐藤アンデルソンさん(24)。このイベントは1997年6月から4回目。「遊ぶ場が少ない仲間の集まる場づくりです」

ノッチェ・ラティーナ
大阪市西区のナイトクラブ「JJ’S」

別の土曜日には、「ノッチェ・ラティーナ」(ラテンの夜)というイベントが大阪市西区のナイトクラブ「JJ’S」で。こちらはペルー人の集まりだ。日本人女性と日系ペルー人の若いカップルや、日本人女性ばかり数人のグループもいる。日本の若者たちにラテン文化を紹介し、出会いを生む場にもなっている。

ええかげんにしいや
エリック・オオミザ

「ええかげんにしいや」。1997年8月から月2回程度、この催しを企画しているエリック・オオミザさん(27)が、テレビで覚えた大阪弁で、酔った友人に話しかける。エリックさんは1990年11月に来日したリマ生まれの日系ペルー人。ペルー料理のレストランで働く。「来日当初はつらかった。だから、ペルー料理と音楽を自由に楽しめる場を作るため、自分の店を持つのが夢」 このイベントに共通するのは、土曜日深夜から翌朝の午前5時ごろまでの時間設定だ。最終間際の電車で駆けつけ、始発時間まで2,000~3,000円の入場料金で楽しめる。

就労に制限のない定住ビザが発給
南米からの日系人出稼ぎ労働者の急増

イベントが流行する背景には、1990年の入管法改正で、日本人の2世、3世には就労に制限のない定住ビザが発給されて以来、南米からの日系人出稼ぎ労働者の急増がある。法務省のまとめでは、1996年末現在、近畿2府4県でブラジル人が約19,100人、ペルー人が約3,800人。南米出身者は全国で約249,000人。10代、20代の増加が最近の特徴になっている。

京都外国語大学
ポルトガル語、スペイン語

「ポルトガル語、スペイン語の日系南米人向け新聞「インターナショナル・プレス」の首藤アンナ大阪支店長は「こうしたイベントは若者たちが故郷の文化を楽しむ場として定着している。電車で大声でしゃべっても苦情を言われない大阪のノリはラテン的。ブラジル人に受けている」と話す。

ペルー・カトリック大学

また、京都外国語大学で日系人社会を研究するペルー・カトリック大学のラファエル・タピア教授は「若い日系ペルー人の中から、日本とペルーをミックスした新しい文化が生まれてくるだろう」と話している。

路上一転、ステージ

ダンスの楽しさ伝えたい(扉あけたら)/大阪

(2001年1月6日、朝日新聞)

ストリート系
パフォーマンスグループ「パニクルー」

路上を表現の場にする「ストリート系」と呼ばれる若者がいる。ミナミやキタの繁華街で、歌い、詩をよみ、絵を並べる彼らのまわりに小さな輪ができる光景は珍しいことではない。 でも、8人のダンス・パフォーマンスグループ「パニクルー」が、1998年8月の結成直後から京橋で半年間続けた「金曜ライブ」は、それとは少し違った。

金曜日の夕方
京橋の路上

金曜日の夕方、8人は決まって京橋の路上に現れた。ロボットのような、それでいてリズミカルな動きに観客の視線はくぎづけになる。 1時間半ほどのパフォーマンスが終わるまで、JRと京阪電車の駅をつなぐロータリーにできた人垣は消えるどころか、大きくなるばかり。最初は数人だった観客は数10人になり、やがて数100人になった。観客で埋まったロータリーは「路上」の域を超えた。

ポッピングダンス
植木豪

いま彼らのレギュラー番組を手がけるテレビ大阪のプロデューサー(33)も当時の観客の1人。「仕事柄、ストリート系はいろいろ見てきた。自己発散型やナルシスト型が多い中で、彼らの踊りには、サラリーマンや子ども、老人も足を止めた。僕自身、すぐ帰るつもりだったのに、最後まで見ちゃってました。」 * 八人は、笠原康哉(31)、森田繁範(27)、植木豪(25)、佐々木洋平(25)、中野智行(26)、山本崇史(25)、堀内和整(25)、水野哲也(25)。

ブレークダンス

いずれもブレークダンスの一種の「ポッピングダンス」で名の知られたダンサーだ。世界大会で優勝経験のある植木を筆頭に、海外にもファンは多い。 それぞれ仕事をもちながら大阪・ミナミのクラブに通い詰め、知り合った。ダンスコンテストなどでしのぎを削るうち、「最強ユニットになろうぜ」とまとまった。

社交ダンス

グループ結成当初から、8人のパフォーマンスは、ダンスの技術を競うダンスシーンでは異質だった。高度なポッピングダンスに、カンフーやプロレスの技を織り交ぜ、笑いもとる。リーダーの笠原が言う。「少し前までクラブから一歩外に出れば『ダンスって社交ダンス?』という世界だった。もっと多くの人にこの楽しさを伝えたいよなって、みんな思ってたんですよ。」

山口雄一
踊るドリフターズ

マネジャーの山口雄一(30)は彼らのパフォーマンスを初めて見た時、「こいつら、踊るドリフターズになる。」と驚いた。クールなポーズでキメたとかと思ったら、突然お笑いが始まる。ダンスが分からなくても楽しめるステージが気に入った山口は、8人にこうけしかけた。

JR京都駅前

「大阪で、もっとたくさんの人を楽しませてみろよ。」 * ダンスを知らない人にも自分たちを見せられる場所はどこか。答えを出すため、あちこちの路上に飛び出した。 数人ずつに分かれ、神戸の三宮や元町、JR京都駅前、大阪の梅田や茶屋町、天王寺などに向かった。踊り始めるとたいてい警察官や商店主が来て文句を言う。踊りながら逃げたこともあった。

人気ドラマのパロディー
アニメの主題歌

1週間たらずで「いい場所」が見つかった。京橋だ。いくら踊っていても不思議と文句を言われない。電車の乗り継ぎ地点という立地もよかった。 だが、ダンスシーンでの知名度も、路上ではゼロからの出発。覚悟はしていたが、立ち止まっても、大半の人がすぐに立ち去った。 どうやったら行き交う人の足を止められるのか、試行錯誤を繰り返した。子ども向けにアニメの主題歌を編曲して踊ってみせた。人気ドラマのパロディーも試みた。ダンスの合間にコントで会話を向けたら、お年寄りも笑った。

京橋から姿を消した
2000年11月、芸能界にデビュー

引きあげる前には必ず掃除をした。ちり紙で床をふいた日もある。「おれたちにも通行人にも、大切な場所やから」と佐々木。そんな姿に「頑張れや」と声をかけてくれる警官もいた。 軌道に乗り始めたと感じた約2ヶ月後、日時を固定して京橋に立つことに決めた。チラシを配り、本番までの間、1時間半ほどのメニューを練った。 「金曜日ライブ」に人が集まる様は、世界チャンプの植木も「心底、うれしかった」。しかしそれは地元の通行路をふさぐことでもあった。 1999年春、1,000人を集めたのを最後に、8人は京橋から姿を消した。 * パニクルーはその後、東京で活動を続け、2000年11月、芸能界にデビューした。

フレッシュ・ダンス・バラエティー

デビューにあたり、自分たちのパフォーマンスを「フレッシュ・ダンス・バラエティー」と名づけた。「ダンスグループ」も「お笑いグループ」も、ちょっと違うからだ。「いまはストリートから離れているけれど、おれたちからストリートのにおいが消えることは絶対にあらへん」と笠原はいう。ストリートの感覚を忘れない。それが、「フレッシュ」という言葉に込めた意味だという。

創作のジャグリングを見て 京都大道芸倶楽部

2002年4月20日に京でショー

(2002年4月18日、京都新聞)

ジャグリングドーナツ
京都市左京区聖護院の京都教育文化センター

ボールや箱、棒などでスリリングな芸を繰り出すジャグリングを紹介する「京都大道芸倶楽部ジャグリングドーナツ」が2002年4月20日、京都市左京区聖護院の京都教育文化センターで、ステージショー「Live2002」を開く。 サーカスや大道芸で知られるジャグリング。いくつものボールをお手玉したり、棒を空中で回すなど多様な技がある。世界大会もあり、京都は国内でも先進地で、全国大会優勝者らを輩出している。

京都大生

1998年に、京都大生を中心に京都大道芸倶楽部ジャグリングドーナツを設立。小学生から社会人までのメンバーが、学園祭や子供会に出前するなど、活動している。

3回目のライブ
午後7時開演

2002年で3回目のライブは、ダンスやパントマイムの要素を入れた物語性のある構成で、実験的な舞台表現に取り組む。平凡なサラリーマンが忍び寄る怪しい影-不思議な時間の世界へ引き込まれていく様子を、リングやクラブの技を組み合わせて展開していく。 午後7時開演。一般1,300円、大学生800円、大学新入生と高校生以下400円。